宮古島の歴史

室町時代から続く宮古島の歴史にまつわるスポットを紹介。

謎とロマンに包まれた宮古島の歴史
謎とロマンに包まれた
宮古島の歴史

宮古島には、文字で書き残す習慣が少なく古い書物があまり残っていません。そのため島の歴史は、昔話として語り継がれてきました。室町時代、豊見親(とぅゆみゃ)と呼ばれる支配者が現れるまでの時代は、特に謎に満ちています。16世紀頃には琉球国が、奄美から与那国までを治め、宮古島は大きな役割を果たしました。豊見親墓などの史跡を訪れて、悠久の島の歴史に触れる旅はいかが?きっと、もっとこの島が好きになるはずです。

人頭税
人頭税

江⼾時代になると琉球は、薩摩の属国となり、宮古・八重山からなる先島諸島は「人頭税」という重税を課せられます。お米が作れない宮古島では、雑穀だけでは人頭税を納められず、不足分は「上布」を納めなければなりませんでした。世界的にも、例を見ないほど繊細で、手間がかかる麻織物の最高峰「宮古上布」の技術が維持されてきた背景には、このような歴史があります。宮古上布は、水がない島に残る必然があったのです。

明和の大津波
明和の大津波

1771年、「明和の大津波」といわれる大地震が発生しました。古い文書には砂川・友利付近を襲った津波は10mあまり、4階建てのアパートが丸々浸水するほどの高さです!下地島の通り池にはこの津波にまつわる人魚伝説が残されています。津波の前夜、漁師が獲った“ヨナタマ(上半身がヒト・下半身が魚)”に竜宮の神さまが「大きな波を3度寄越すからそれに乗って帰ってこい」といいます。それを聞いた隣家の母子は伊良部島に逃げて助かりますが、戻ってみると2軒の家が通り池になったというものです。これは津波の恐ろしさ(予兆がある/津波は3度来る/高台のある伊良部島に逃げれば助かるなど)を後世のわれわれに伝えてくれている、いわばソフトな防災メッセージですね。

方言
方言

「んみゃーち、みゃーくずま!」宮古島へようこそという意味です。沖縄本島の方言「めんそ~れ」は宮古島では使いません。宮古島には300を越える「ん」で始まる言葉があると言われているので、“しりとり”をしても終わりません。また、現在の日本語の発音にない発生も多く残されており「す゜(すに〇)」や「き゜(きに〇)」などと表記します(どう発音するかは、島の人に教わってください!)。
ここまで来ると、もう方言ではなく、宮古語ですね!

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